8段階のヨーガの最終段階、サマディ(三昧)について説明する前に、そもそも、どのような心の状態がヨーガに適しているのか、あるいは、ヨーガによってどのような心の状態へと至ることができるのかについてお話しておきたいと思います。
心の状態には、次のような5つがあるとされています。
クシプタ (荒れた心)
ムーダ (惑わされた心)
ヴィクシプタ(散漫な心)
エーカークラ(一点集中)
ニローダ (止滅)
さっと見てわかるように、おそらく、ヨーガではエーカークラ(一点集中)やニローダ(止滅)の状態が適しているのだろうなという気がします。それはもちろんその通りなのですが、そこに至る以前の状態について確認しておくことは、自分の現在、そのときの心がどのような状態かについて観察し、適切なヨーガを行う助けになってくれるでしょう。
クシプタ(荒れた心)
心がクシプタの状態にあるということは、心がドタバタして、あっちこっちに行っているということを意味します。同時に、他人に対しては攻撃的であったり、嫌悪をもったりしやすく、実際に他人の悪口を言ってまわったりしているかもしれません。そのような行動をとらない場合でもイライラして落ち着きません。何をやっても満足せず、関心の対象を次々と変えていきます。何かをせずにはいられず、そのような過度な多動性も特徴になります。
こうした人は、なかなかヨーガをしようという関心をもたないかもしれません。ヨーガをしていても、あのヨーガはダメだとか、あいつは不真面目だとか、ほかのものを攻撃ばかりしているかもしれません。
ムーダ(惑わされた心)
自分の外側にある人・物・事に惑わされて、心が重く・鈍くなっている状態です。多くの場合、もっとお金がほしい、尊敬されたい、きれいに/かっこよくなりたいというような欲望に惑わされています。今私たちが生きているこの世界で、私たちは「もっともっと」と刺激され、常にそうした欲望をもつよう誘惑に晒され、欲望が生まれ続けます。そうした欲望に心が惑わされ続けている限り、そこに心の静けさや、「本当の自分」と向き合おうとする心は生じません。さらに現代では、そのような「本当の自分」をみつけようとすることさえ商売になっていて、お金が必要な世界です。
それに加えて、私たちは自分が所属する集団の価値観に満たされがちです。日本をもちあげるような番組が流行ったりしていますよね。そうした「日本」というものに愛着をもてばもつほど安心感を覚えるような感覚もあるかもしれません。しかしその一方で、そうした愛着に囚われすぎると心が鈍くなり、日本の外のもの、他の様々な人や文化を理解しようとするような柔軟な心ではなくなっていきます。
富や名声への欲望も、集団への一体感も、どちらも心が自分の内側ではなく外側の刺激に向かって、それらに惑わされながら生きていくことにつながります。このように惑わされた心のままヨーガを行う状態とは、お金になるからヨーガをしようとか、綺麗になるために、とか、そうした外側の何かに関連させている状態です。
ヴィクシプタ(散漫な心)
この心は、いろいろな心の状態をいったりきたりして、しかも、そのどれでも良いよね、と考える状態です。つまり、他人に攻撃的になるということも、その人なりの自分の真実があるのだろうと考えます。同様に、お金が一番と考えていたって、それもその人なりの真実だよね、と考えます。このように、どれもこれも真実であって、「もっと良いひとつの状態」(ヨーガでは心の動きの止滅を目指します)など無く、そんな状態を目指す必要もないという考え方になります。
しかし実際は、その場その場に応じて、心地よく過ごせる状態を選んでいるだけなのです。もちろん、以下に見る、「一点集中」や「止滅」の状態を垣間見ることもあるかもしれません。しかし、それを追求しようとして現れる苦労や障害を乗り越えようとせず、避けようとするため、またすぐに、「落ち着かない心」や「惑わされた心」に舞い戻り、それも良いよねと引っ込んでしまうのです。
こうした人びとは、ヨーガを比較的好意的に受け入れ、実践している可能性があります。しかし、ひとつのヨーガを極めていこうという態度にはならず、今日はハタヨガ、来週はアイアンガー、来月はいちどヨーガを離れてピラティス、その次はカラーセラピー、そのあとは仏教入門というように、次々といろいろな手段をとろうとするでしょう。しかしどれも深まりません。深まってくるにつれて面倒になってしまうのです。
潮干狩りをしようとしたとき、あっちを一回掘ったら、すぐにこっちを一回掘って、というように次々と場所を変えていたら、貝はなかなか集まりませんよね。もちろん、「ヨーガの道は複数あり、そのどれもがひとつの道へと通じている」という教えもあります。しかしながらそれは、ある特定の分野で一点集中、止滅が可能となってこそ言えることなのです。
エーカークラ(一点集中)
ここからがヨーガの本質的な心の状態といえます。心、気持ち、関心、感覚があっちこっちに行かず、一点に集中している状態です。8支則のヨーガでいえば、6段階目のダーラナー(凝念)から7段階目のディヤーナ(静慮)と関係してきます。
8段階のヨーガ(その7):ディヤーナ(静慮)
集中の重要さは、次の例によく現れています。ヨーガは、私たちの心と身体を知る技法でもあります。それは、湖を覗き込んで、そこに映る私たちの顔を見ようとする行為のようなものです。
普段、湖はゆらゆら揺れていて、濁ったり、色付けられたり、光が反射したりしていて、自分の顔が本当はどんな顔なのかを見ることは難しい状態です。さらに、湖のそばにかわいい動物がいたり、美味しいものがおいてあったり、楽しい音楽が聞こえてきたりして、自分の顔を見ようとすることなんて早くやめて、楽しく遊び、美味しいものを食べて過ごしたいと思ってしまいます。
そこで、まずはそうした周りの影響から自分を引き離して、集中して湖面を見る必要があります。そうして集中して湖面を見つめようとする態度・心がエーカークラ(一点集中)なのです。
「集中」は古典ヨーガにおいて非常に重要な考え方です。それというのも、古典ヨーガにおいて「ヨーガ」の語源は「ユージール・ヨーゲ」にあり、これはまさしく「集中」を意味します。現代的なヨガでは、「ユッジュ」、すなわち「つながり」を「ヨガ」の語源と捉えて、「いろいろなものと繋がろう!」というような考え方もあるようですが、ここには気をつけなければいけないことがあります。というのも、むしろ現代に生きる私たちは、いろいろな物や事につながりすぎているからです。その結果、上で見た「ムーダ(惑わされた心)」の状態だったりします。そのため、むしろ、この、一点集中の心、そしてその先にある止滅の心を備えてこそ、改めて「つながり」について考えることができるのです。
ニローダ(止滅)
この心の状態は、8支則のヨーガでいう7段階目から8段階目に相当するものです。ヨーガで最終的に求められる心の状態と言えますね。
上で説明したエーカークラ(一点集中)と同じように、湖の例で考えてみましょう。自分を知る上で、まずは湖面に映る自分の顔に集中する必要があるということをお話しました。しかし考えてみれば、湖面がゆらめいていては、顔が常に歪んでしまいます。最終的に、湖面のゆらぎ(心のうごき)を静めることで、本当の自分がようやく見えてくるわけですね。それが「止滅」の状態であるといえます。
ここで注意しなければいけないこととして、ニローダ(止滅)によって、心自体が無になってしまう、無くなってしまう、というわけではないということです。あくまで、心が揺れ動くその動きを静止させるのです。必要であれば、心を動かして、生きるのに必要な情報を記憶からもってきたり、状況判断することができます。あくまで、心が揺れ動かない、静まっているということが重要なのです。
より良い瞑想のために
以上、5つの心の状態を見てきましたが、ヨーガの瞑想では、エーカークラ(一点集中)とニローダ(止滅)の心がいっそう重要になります。いろいろなポーズをとったり運動したりするアーサナは、8支則のヨーガのなかでは3段階目でした。まだまだ入り口ですね。それに対して瞑想は、6・7・8段階目にあたります。ヨーガのいっそう深い次元にあるといえます。そうなると、心の状態がとても大事になってくるのです。
よく瞑想で、ぼーっとする感じ、とか、ふわっとする感じ、とか、眠くなる感じとか、白くなる感じとか、後ろにひっぱられる感じとか、そのような感覚を感じることがあるかもしれません。実はこの状態は、上で説明したムーダ(惑わされた心)の状態にあたります。心が鈍く、重くなっていて、外部の影響をたいへん受けやすい状態です。
それに対して、エーカークラ、ニローダの心をもった瞑想はどうなるかというと、明晰で、聡明で、晴れ晴れとしていて、透き通っている感覚になります。外部の影響に対しては、実はものすごく鋭敏であるのだけれど、それに惑わされず、揺らがない、影響をうけない状態です。外部の本質的な部分への気づきがあり、つながることもできるけれど、心は集中し、動かず、静まっています。
ご自身で瞑想をされるときには、心の状態をチェックしながら行うようにしてください。場合によっては、クシプタ(荒れた心)へと移行してしまうことさえあります。急に昔の嫌なことを思い出して、なんだか腹立たしくなってきた、なんていうこともあるのです。可能であれば指導を受けながら瞑想を行えるとよいですね。