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8段階のヨーガ(その2)

:勧戒(3)読誦

2020年2月9日

読誦(スヴァーディヤーヤ)

 勧戒の最後の2つ、「読誦」と「祈念」は、心得や教えというだけでなく、日々の実践にいっそう近づいてくるものです。

 スヴァーディヤーヤとは、読誦(どくじゅ)、あるいは「自己の探究」とも訳され、具体的にはヨーガのお師匠さんとの対話、聖典の研究やマントラの詠唱、読経のことをさします。昔のヨーガ行者さんたちは、自らの師を求めて長い時間をかけて旅をしていたそうです。師匠に巡り合っても、その教えは全て口頭で伝授され、書き留めることは許されませんでした。そのため、古代の人びとはヨーガの教えの全てを覚えていたことになりますが、そうであれば、今の私たちよりもたいへん優れた能力を持っていたと言えそうですね。古典ヨーガの教えによれば、現在は暗黒の時代(カリ・ユガ)であり、人間は退化し、堕落してしまっているのです。

 

 現在、古典的、伝統的なヨーガの指導者の数は減り、そのような人に出会うことがいっそう難しくなっています。多くの人は忙しく、師匠探究の旅をする時間はなかなか無いでしょうし、コンピューターやスマホのおかげで、人間が何かを記憶しておくことはどんどん少なくなっています。どんな情報も写真でとっておけば、後ですぐに見直すことができるので、日々、スマホの写真機能をメモがわりにしている人も多いのではないでしょうか。それでもまだ、紙の手帳やメモ帳を愛用している人もいますよね。私も手帳はアナログ派なのですが、そうはいっても、私が研究の道を歩み始めた頃にはすでにパソコンでレポートを書くことが一般的だったので、おそらくその影響からなのか、最近ではますます漢字が書けなくなっているような気がします。

 

 師匠が少なく、旅の時間もなく、記憶力も落ちてきている、さて、どうしたものでしょうか…。このような状況のなかでこそ、『ヨーガスートラ』や『バガヴァッド・ギーター』をはじめとした、書かれた書物としての古典・聖典およびその解釈書が役に立つのです。そのような古典を残してくれたお師匠様たち、そしてそれらを手に取り読むことができる幸運に感謝しなければなりませんね。

 

 私たちの多くはそのような恩恵にあずかることができるはずなのですが、現代のヨーガ指導者のなかには、ヨーガをちょっと風変わりな運動だったり、ダイエットの手段としてのみ取り入れている人もいるかもしれません。しかしそのような取り組みは時として、依存や羨望、嫉妬、渇望を生みかねません。これまで見てきたヨーガの教えの真逆ですね。そのようなマイナスの可能性に気づくためにも、ヨーガの聖典に立ち戻り、読誦の教えを守ることが必要なのです。

 もうひとつの読誦の実践として、マントラの詠唱についてもお話ししましょう。マントラを唱えることは、そのマントラで表現されている神様や聖人への感謝とともに、その力を自らに宿すことができる方法であると考えられています。

 古典に出てくる聖鳥ガルーダは、ガヤトリー・マントラが具現化したものであり、ガヤトリー・マントラを唱えると、ガルーダがもつ不死の能力や何ごとをも乗り越える力が宿るとされます。アーユルヴェーダではダンヴァンタリという医療の神様の力を借りたり、安全の神様であるガネーシャの力を得るためにマントラを唱えます。パタンジャリへの祈りのマントラも、その智慧と力に学ぼうとするものです。

 それだけでなく、マントラを唱えることによって、瞑想としての効果も生じます。瞑想には様々なものがありますが、そのなかで、音に集中する瞑想、オームを唱える瞑想などがあり、音の響きを感じながら内観したり、音が消えていった後に残る無限の静けさを感じたりすることで瞑想の効果が現れます。マントラの詠唱にもそのような効果があるのです。音と瞑想については、いずれもう少し詳しく書きたいと思います。

 最後に、バリ島の事例についてご紹介したいと思います。バリ島には、「バリアン」と呼ばれる呪術師(呪医師)がいて、日々、地元の人びとの悩みや心身の不調に向き合い、民間療法を提供しながら、シャーマンとしての役割もしています。そのバリアンさんのなかにも『ヨーガスートラ』(インドネシア語だと『ヨーガサストラ』)に学ぶ人びとがいて、その教えを民間療法に応用しているそうです。その一端として、バリ島の古文書「ロンタル」からも学びを得るとのことですが、それを書き写すことを「ヨーガの実践」と言う人もいます。仏教でいうところの写経のようなものですね。これらもまた読誦(スヴァーディヤーヤ)と言えるのではないでしょうか。