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8段階のヨーガ(その8−1)

:対象のあるサマーディ(三昧)

2021年7月4日

 このブログではパタンジャリ著『ヨーガ・スートラ』に従って、8段階のヨガについて解説してきましたが、いよいよ最後の段階となるサマーディについてお話しましょう。

 

 さて、ここで突然ですが、古典ヨーガにおけるヨーガの目的は何だったでしょうか。

 

「ヨーガは、心の働きを止滅させるものである」

(ヨーガ、チッタ・ブリッティ・ニローダハ)

 

まずここに立ち返って考えていきましょう。「心の働きが止滅する」とはどういう状態なのか。なぜそれが必要なのか。このことを改めてしっかりと理解することが、サマーディを知るうえでとても重要になります。

 

ぐるぐる回る心=印象の現実化

 心は放っておくと、記憶やイメージ、印象、煩悩をぐるぐる回転させて、それらを現実のものにしようとしてしまいます。

これを、「心がもつ任務」と言います。

 例えば、

スマホで見たバッグのイメージ(印象)が頭を離れなくて、買おうかどうしようか延々と悩んでしまう。悩みに悩んで、ついに買ったは良いけれど、今度はまた次のバッグが気になって買い物を繰り返してしまう

先日親から言われた酷い言葉が心にずっと残っていて(印象)、たびたび思い出してはイライラして、自分の言動までもがトゲトゲしてしまう

なんていう状態ですね。

 記憶やイメージ、印象が快楽なのか不快なのかは関係ないのです。いずれであっても、心はわずかな情報をもとに、現実を作り出してしまうのです。バッグのイメージはわずかな情報であっても、それが頭のなかでぐるぐる回っているうちに、私たちは消費行動へと駆り立てられ、実際にバッグを手にして、イメージが現実のものとなるのです。ひどい言葉が印象として残っていれば、やはりその酷い印象が自分の現実の言動となって、親との関係をさらに悪化させてしまったり、友人関係にも影響を与えてしまうかもしれません。

でも、快楽、楽しみであれば良いのではないか?と思うかもしれません。しかしその快楽は次々と欲望を喚起して、止まることを知らず、その結果、それが過剰なストレスになったり、他にやるべきことが手につかなかったり、人を傷つけたりしてしまうことにもなるのです。

 

2つのサマーディ

 ヨーガによって、記憶や印象を良いものに転換したり、煩悩を消滅させること(「心の任務からの解放」とも呼ばれます)によって、それらが現実になることを防ぐことができます。

 

 心はそのとき、より本当の働きに近づき、2つの目的へと進みます。

1つめは、現実の世界そのものを、一面的ではなく、まるごと、完全に知るということです。

2つめは、自分と現実の世界とは、無関係なものであることを知るということです。

 

 心のこのような2つの状態にあわせて、サマーディは、

1 「対象のあるサマーディ(サンプラジュニャータ・サマーディ)」

2 「対象のないサマーディ(アサンプラジュニャータ・サマーディ)」

という2つに分かれます。

 

ここではまず、1 「対象のあるサマーディ」 からいきましょう。

 

心は表面ばかりみている

 このサマーディの状態は、記憶、イメージ、印象、煩悩、いろいろな価値観、義務などから離れ、それらの「色眼鏡」を取り外して物事をみている状態です。そのように、物事を直接認識できるようになる必要があります。

 

 例えば、テレビの画面そのものを見ようとすると、普段はいろいろなテレビ番組に邪魔されて、その内容に心が乱され、テレビの画面そのものを認識することはまず無いでしょう。テレビが消えていたとしても、今度はそこに自分の顔が写ったりして、やはり画面そのものに意識を向けることは難しいはずです。

湖の表面についての認識という例でも良いでしょう。湖が風でゆらめいていればその動きが邪魔をするし、静かであっても、水の中の魚の泳ぎに心奪われるかもしれません。

 

 つまり、私たちは心を働かせながら常に物事の表面・一部分だけをみているということ、さらに、そうした一部分から全体を予測し、実際の言動にうつしながら生きているということになります。私たちの日常の心はそのような任務をもっていて、これまでの記憶や経験をもとに、私たちの生命を危険からと遠ざけたり、よりいっそうの快楽を享受しようとします。

 

心は役に立とうとする

 続けて、日常的によくある例を見てみましょう。遠くからブロロローという低い音が聞こえてくれば、心は、車がきたから危ないなという判断をして、私たちに道路の端に寄るように行動させます。

良い匂いがしてくれば、きっと美味しいものがあって、私たちの空腹を満たして満足させてくれるに違いないと判断し、そちらに足を向けさせます。

ひどい言葉が聞こえてきたときには、その一言で、きっとこのひとは悪い人で、私に危害を加えるかもしれないと価値判断し、その人との付き合い方を固定しようとするでしょう。

いずれも、ものごとの一面・一部分から、全体を判断して、私たちはすぐに行動し、心のイメージ、印象を現実化して、できるだけ安全でいよう、心地よくいようとするのです。

 

 確かに、それらの判断、心の動きは、生命の危機から早く逃れる可能性が高まる(かもしれない)という点では役に立つものとも言えます。しかしながら、同時に、ものごとの本質を見定める機会は失われてしまうのです。「対象のあるサマーディ」では、こうしたことがすべて取り払われ(心の任務から解放され、心が転変する)、私たちの価値判断抜きにして、物事の本来の姿が、直接に立ち現れるのです。心の働き(任務や転変)を止め、滅すること、ヨーガはそのための技法である、ということになります。

 

心の動きは全部ダメ!ではない

 ただし、最後に重要なのは、あらゆる場合において、心は常に物事の本質へと向かう必要がある!というわけではない、ことです。むしろ、心を自由に使いこなせるようになる、ということが重要です。つまり、生命を守るべきときには心を働かせて身を守り、そうでないときには物事の本質を知って心の働きを鎮めることができる、とうことになります。

 

 最後に改めて、サマーディの前の2つ、ダーラナーとディヤーナの重要さに触れておきたいと思います。その2つは心を鍛え、集中力、認識力を高める技法でした。そのようにして心と向きあうための素地ができてこそ、その後、サマーディにおいて心を開放しつつ、コントロールできるようになるのです。