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8段階のヨーガ(その1)

:禁戒(1)非暴力と正直

2020年1月13日

 ヨーガの8支則(8段階のヨーガ)のうち、最初のふたつは教え、知恵、日常の心得のようなものになりますが、前回は、その部分が古典ヨーガにおいて非常に重要であるということをお話しました。今回は、そのひとつめ「禁戒(ヤマ:Yama)」についてです。

 禁戒(ヤマ)には5つの項目が記されています。

  (1)アヒンサー(非暴力)

  (2)サティヤ(正直)

  (3)アステヤ(不盗)

  (4)ブラフマチャリヤ(禁欲・梵行)

  (5)アパリグラハ(不貪)

 これらのなかで、まず「非暴力」と「正直」についてお話したいと思います。

(1)アヒンサー(非暴力)

 殺生をしないということに始まりますが、これを厳密に守ることはたいへん難しいものです。動物を殺さないためにベジタリアンになるということも可能ですが、それでも、日常生活のなかでは、ただ歩くだけで小さな虫を踏んでしまうかもしれません。

 ある宗教では、それを避けるために、自分の前を掃きながら歩くという習慣があります。しかしそれでも、私たちは息を吸ったり、唾を飲み込んだりするだけで、膨大な数の微生物を犠牲にしていると言えます。それでは、そんな自分なんていないほうが良いということで、自ら命を絶つことはどうでしょうか。それもたいへんな暴力行為であり、認められるものではありません。

 ヨーガの古典の中には、次のようなお話があります。インドでは雄牛は役に立たない存在として屠殺されていました。しかしある行者さんのコミュニティがそれに対して異議を申し立て、雄牛たちを集めて飼育しようと考えました。そうして、屠殺の脅威もなく搾乳のために縛りつけられもしない、雄牛たちの療養所ができあがりました。その後、雄牛たちのために整備された飼育小屋、さらには山ひとつまで、またたく間に雄牛で埋め尽くされることになりました。雄牛たちはどんどん増えていき、最後には設備も山も荒れはててしまったようです。

 その後、雄牛たちと山がどうなったのか。いずれにしても、非暴力を極めようとした結果、なかなかたいへんなことになって、場合によっては大量の雄牛たちと山ひとつの自然が犠牲になってしまったかもしれません。

 非暴力を心得て生活することと、非暴力を絶対のものとして無理をすることは大きく異なるというわけです。

(2)サティヤ(正直)

 正直でいることは、現代社会の複雑な人間関係のなかでたいへん難しい事かもしれません。これは他人に対してだけでなく、自分に対しても正直である必要があります。では、自分にたいして正直であるということはどのようなことでしょうか。

 食べたいと思ったら食べる、寝たいと思ったら寝る、ゲームをしたいときはしたいだけする。いかがでしょうか。そんな自由な生活をしたいですね。しかしどうもヨーガとは相入れないような気がします。どちらかというと、自分勝手に近いような…。

 ここで大事なことは、この「正直であれ」ということが上述「非暴力」の次に大事とされていることです。つまり、他人や自分に対して害(暴力)を与えるような正直さは控えなければならないということを意味します。ゲームをしたいからといって誰かを傷つけてまでしても良いわけではないのです。食べたいからといって食べすぎると、それは後々、ストレスになったり、身体に負担をかけたりして、自分を傷つけることになります。

 では、他人や自分を傷つけないように、何もしないとしたらどうでしょうか。それでは自分を偽り続けることになり、正直さは遠のいてしまうでしょう。日々の暮らしのなかで、正直であることの難しさは、このようなところにもあるのです。